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    Loch Ness Map

    ご覧いただける場所

    1

    フォート・オーガスタス修道院

    2

    ゴリーの洞窟

    3

    ホースシュースクリー

    4

    チェリー島

    ゆったりと寛ぎながら、ネス湖の美しさを存分にお楽しみください。

    安全および船舶に関するインフォメーション

    ネス湖クルーズは、お客様のご乗船を歓迎いたします。

    このネス湖クルーズ船は、オーダーメイドで作られたクルーズ船で、英国海事および沿岸警備隊の規制に準拠いたしております。

    快適で安全にご乗船いただけますよう、次の安全に関するアナウンスメントをお聞きください。

    万一、緊急事態が発生した場合は、船内放送や乗組員の指示を注意深くお聞きください。

    救命胴衣はサロンの席の下と、下部デッキと上部デッキの両方にあるマーク付きの箱に収納されています。サロン内と操舵室の窓に使用方法がはっきり表示されています。必要に応じて乗組員がお手伝いいたします。

    救命いかだは上部後方デッキにあります。自動あるいは手動で準備され、乗組員の指示とアシストの下で搭乗していただきます。 お子様をお連れの全てのお客様へ、船内では走らないよう、また、お子様から離れないよう船長からお願い申し上げます。

    ごみは必ず船内に用意されているごみ箱に入れ、船外に破棄しないようお願い申し上げます。ネス湖クルーズ船内は全船内禁煙ですので、終始禁煙でお願いいたします。

    下部デッキには豊富な種類のビール、お土産品、そして勿論モルトウィスキーもお用意しております。

    女性トイレは右舷側、男性トイレは左舷側にご用意させていただいております。

    更に詳しい情報やサポートがご必要な場合は、お気軽に乗組員にお尋ねください。

    それでは、ゆったりと寛ぎながら、スコットランドのグレートグレンにあるネス湖の驚異をお楽しみください。でも、モンスターには餌を与えないでくださいね!

    ネス湖

    お客様は世界的に有名なネス湖の上を旅されていますが、この深く黒い渓谷にはモンスターだけではなく、多くの興味深いものがあります。

    ネス湖はスコットランドのグレートグレンの一部であり、北東の北海の下から南西の大西洋の棚まで続く地質学的断層線です。この線により、スコットランドは二つに分けられています。

    スコットランドのハイランドを形成する岩は、赤道の南にある暖かい熱帯の海に500万年以上前に敷設されました。およそ400年前に北アメリカとヨーロッパ大陸が衝突し、巨大な山脈が形成されました。これらの山はカレドニアンとして知られています。 2千万年後、グレートグレン断層線が形成され、湖の北にある山々が南西に65マイル(100km)ずれ、巨大な谷が形成されました。

    最終的に北アメリカは漂流し、大西洋が開かれ、大陸が北緯に入ると、大氷河期が始まり、巨大なギザギザの山々が、今日のクルーズで両側にご覧いただけるような切り株のようになるまで浸食されました。

    最後の氷河期が終わったおよそ1万2千年前、ネス湖は淡水で満たされ、今日のような形になりました。植物や木々が現れましたが、ほとんどが中世の時期に製錬用の木炭生産のために伐採されました。今日ここで見られる松林は、カラマツ、ベイマツ、シトカ、さらにはセコイアなどの外来種が主です。

    唯一の在来種であるスコッツパインはグレンアフリックなどの自然保護区で最もよく見られます。泥炭湿原のため雨水が汚れ、湖の水はとても暗く見えます。

    湖の長さは約23マイル、幅は平均1マイル、深さは754フィートです。別の言い方をすると、長さ35キロメートル、幅1.5キロメートル、深さ230メートルです。世界人口の三倍の人をネス湖に入れることができ、イングランド湖水地方全体を含めた、イングランドとウェールズの全ての湖、川、貯水池を合わせた水量よりも多くの水を含んでいます。

    ですので、いくつかの謎を隠す余地がまだあるのです。

    ネス湖ミステリー

    湖の上ではカメラを離さずに、いつでも写真やビデオを撮れるように用意しておいて下さい。いつ何時、珍しいものと出くわすラッキーなチャンスに巡り合えるかもしれないので。

    ネス湖の表面で見られる現象がネッシーであるかどうかは現在も議論されており、それには色々な説があります。 それでは、ネス湖の歴史を振り返り、何かヒントがあるか見てみましょう。 湖の謎めいた生き物の最初の目撃記録は、西暦565年のこの地域の原住民であったピクト人にキリスト教の布教活動をしていたスコットランド人/アイルランド人の宣教師、聖コルンバの目撃証言でしょう。

    ただ、おそらくこの話はキリスト教の力を誇示するための話に過ぎなかったのではないかと思われます。 大きな魚の目撃例は19世紀から20世紀初めに出てきましたが、1933年に突然一連の目撃例と写真によって世界中に知れ渡りました。 水面からでた優雅な首のもっとも有名な写真は、偽物であったと判明しましたが、今でもその象徴的なイメージはネス湖のモンスターのイメージとしていつまでも残っていくでしょう。

    科学者たちは長い首の動物はその温度と十分な食料がないため、冷たい水の中では生存できないことを示しました。

    これらの目撃のいくつか間違いであったり、鳥たちのダイビングシーンであったり、意図的に作られたものだったのかもしれません。 目撃情報の大半は一つのこぶで、大きな生き物である可能性があります。音波探知機は深海で強く反応し、肺呼吸生物ではなく、魚に近いものと確認されています。 残念ながら、集められた証拠の大部分は間違い、偽造あるいは解釈不能なものです。

    可能性の一つとして、何世紀にも渡って生存し、巨大化することが知られているチョウザメが河川系に放たれたかもしれないといわれています。世界記録は240年以上生き、8.3メートルにもなったというものです。非常にロマンチックなモンスターとは言い難いですが、少なくとも本物の生き物です。

    フォート・オーガスタスと修道院

    記録が残っている最古の時代から湖のこちらの端にコミュニティがあったことが分かっています。

    聖コルンバが北に住むピクト人達をキリスト教に改宗させようとしてから、7世紀に聖クミンがこの深い峡谷に来るまで、この地の人々は異教徒になったり、キリスト教徒になったりしていました。聖クミンは聖コルンバの功績を基にハイランドのこの地にキリスト教を完全に根付かせました。

    ここに教会を建て、村はキリウィミンまたはクミン教会として知られるようになりました。今でも地元ではこの名前で知られており、地元の学校はキルクミンアカデミーと名付けられています。 1715年のジャコバイト蜂起の後(ジャコバイトはカトリックのスチュアート君主制のの支持者達でした)、ジョージウェード将軍はキリウィミンの周りに道路網を構築しました。

    また、将軍はここに新しい砦を建設し、ジョージ王の一番のお気に入りであったカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスに敬意を表してフォート・オーガスタスと名付けました。この砦が建設されてからは、この村は英語名でフォート・オーガスタスとして知られるようになりました。 この砦はとても大きく、頑強に建設され、各角に強力な防御陣地がありました。そして、かなりの規模の軍事分遣隊を収容することができました。

    最後のジャコバイトの蜂起は1745年に起き、砦は大砲の砲火でひどく損傷し、ジャコバイト軍に降伏しました。 1746年、ジャコバイトは敗北し、砦の名前の由来となったカンバーランド公爵は、砦を本部として使用することに決めましたが、使用できませんでした。カンバーランド公爵、その損傷に激怒し、ハイランドの人々に対して一連の恐ろしい残虐行為を始めました。 砦は1745年以降再建築されることなく、ロバット卿が政府から購入し、その一つの建物を狩猟用のロッジとして改装し、1878年にベネディクト会の修道士に譲り渡し、修道士たちによって砦の基礎と残りの建物に接続する修道院が建てられました。

    1993年まで修道士たちは寄宿学校として運営し、1998年までビジターセンターとして運営していました。当時としてはスコットランドで最大の観光スポットでした。 現在はこれらの美しい建物はアバートに改装され、一般には後悔されていません。

    ゴリーの洞窟

    湖の南側にある崖には、ゴリーの洞窟の隠れた入り口があります。

    ゴリーの本名は、悪名高い牛泥棒のアレクサンダー・マクドナルドでした。彼はこの洞窟を隠れ家にしていました。

    カローデンの戦いの生存者として、戦いの間に仲間が受けた仕打ちの報復として、イングランドの司令官、カンバーランド公爵を暗殺することを決めたのです。

    丘の中腹で待っていると、公爵とその軍隊が通りかかり、ゴリーはこれをチャンスと受け取ります。ゴリーのラッパ銃には銃弾と釘がたくさん詰められていました。公爵が射程距離に入ってくるまで、彼は隠れていました。

    ゴリーにとっては残念なことに、銃弾は当たらず、チャンスを逃してしまいます。彼は即座に洞窟に戻りますが、ヒースによってゴリーを見失ったイングランドの兵士達に追われます。

    妻や他の村の人々が持ってきてくれた食料と物資のおかげで、彼は何とか洞窟の中で隠れ続けることができます。最終的にイングランド軍は捜索を断念し、この逃亡者が最後カンバーランドの手荒な裁きから逃れられたのかどうか物語では語られていません。

    音波探知機

    トップデッキにいらっしゃるお客様、どうぞ下のサロンにおりてきてください。ネス湖の音波探知機システムの使用に関するライブプレゼンテーションを始めたいと思います。

    音波探知機は水中を探索する際に唯一で最も有効な装置です。水中にある物体から反響する音のパルスをもとに、帰ってくるシグナルを解釈します。

    特に音波探知機は水と異なる密度を持つ物体を探知できます。湖の壁は石でできているので強く反響しますが、シルト質の湖底は弱い反応を示します。

    空気は非常に強く反響しますが、動物の肉は水と同じ密度なので弱くしか反響しません。音波探知機で動物を探すと、哺乳類か爬虫類の場合は肺、または魚であれば浮袋が反響します。

    音波探知機で物体の大きさを測りだすことは出来ず、強度のみ分かります。この二つが同じであると考えられるかもしれませんが、そうではありません。例えば、潜水用呼吸装置をつけて船腹を泳いでいる男性は非常に力強く見えますが、実際は反響する大部分は潜水用呼吸装置とマスクとスウェットスーツの中に籠った空気に反響しているのです

    1987年のオペレーション・ディープスパンでは3つの強い反響をとらえましたが、異なった動物は異なった反響の強さを示すので大きさを測りだすことは出来ませんでした。例えばウナギは体の中に空気袋がないので探知することが出来るには巨大なものである必要があります。

    音波探知機の経験豊富な使用者は過去の経験から物体の大きさを推定できます。ダレル・ロレンスはオペレーション・ディープスパンで最強のコンタクトはサメより大きく、鯨より小さいと推定しました。

    ネッシーがそのくらいの大きさであれば私たちのほとんどが喜ぶことでしょう。

    Horseshoe Scree

    ホースシュースクリー

    右舷側(右)に、馬の蹄鉄の形をした大きな砕石エリアが見えます。名前はそこから来ています。

    ある地元の言い伝えによると、ここはモンスターが逃げようとしたときに傾斜がきつすぎて谷底に落ちてしまった場所だそうです。

    スクリー(がれ)は何百年もの時間をかけて季節的な天候によって作られます。水が岩の表面の隙間に入り込み、凍結すると水が膨張して岩を砕き、丘の斜面を下っていきます。ハイランドでよく見られる特色です。岩は簡単に崩れ、下にいる人たちの上に落下する可能性があるのでとても危険です。

    1985年モンスターハンターのスティーブ・ブラックウェルはここの水に大きな檻をいれ、鮭を仕掛けておきました。

    このイベントはネス湖プロジェクトが安全のために監視しました。檻は、イベントのスポンサーとなるウォッカ会社を獲得することに成功しましたが、捕獲されたモンスターは取るに足らないニュースを探しているジャーナリストだけでした。

    グレートグレンの人々

    グレートグレン(大峡谷)はスコットランドハイランド地方を横切る自然の通信網です。

    1万2千年前に氷が消えると、ライカン(藻や菌類)、草そして木々が丘や谷に定着しました。発展していく環境をうまく利用した動物たちが現れ、おそらく8千年前くらいに人類はグレンに到着したと考えられます。

    彼らは石器時代の人々で、洞窟や間に合わせのシェルターに住んでいたため、ほとんど形跡が残っていませんが、まだ陸続きであった頃、ヨーロッパからイギリス海峡を越えてその後7千年をかけて、北に向かったと考えられています。

    約千年前人々は農業を始め、コミュニティを形成しました。紀元前500年頃アイルランドからの侵略がありました。これらの人々は青銅器時代のハイランダーの残党に打ち勝って早急に増えていったピクト人達でした。

    6世紀にはさらに多くのアイルランド人が到着しましたが、これらの新しい到着者はスコットランド人と呼ばれ、ケルト人でもありました。

    数十年以内にピクト人とスコットランド人は統一されスコットランドと呼ばれるようになりました。ケネス王(西暦843年)はしばしスコットランドの最初の王と考えられることもあり、そのことによって今現在も王国である世界最古の王国として考えられるという、誇り高く、ユニークな主張です。

    マクベス(シェークスピアによって不当に悪く書かれましたが)が11世紀に初めて警察部隊を導入しましたが、その後の数十年間多くの戦いがあり、ウィリアム・ウォレスの勇敢な努力にもかかわらず、スコットランドは13世紀の終わりに最終的にイングランドのエドワードによって制圧されてしまいます。

    1328年ロバート・ザ・ブルース王によって独立が確立され、イングランドのスコットランド支配が終わります。実際はスコットランドの王室の血筋が残り、現在のグレートブリテン島と北アイルランドの君主はロバート・ザ・ブルース王の子孫です。

    ジャコバイトとは?

    ロバート・ザ・ブルースの後、イングランドとの国境紛争が続き、王冠を統一しようとする試みが数多くありました。

    これらの中でよりよく知られている話はスコットランドのジェームズ4世がイングランドのヘンリー8世の妹と結婚するというもので、実現すると王冠が一つに繋がる可能性がありました。しかし、すべての計画が予定通りに進んだわけではなく、スコットランド人と常に良い関係を築いてきたフランス人は、ヨーロッパを征服するという思いを持つヘンリーからその関心をそらさせるよう、ジェームズに依頼しました。結果として生じた戦いは、スコットランド人にとっては大惨事でした。

    数年後、ジェームズ5世の娘であるスコットランドのメアリー女王が王位を継承しましたが、カトリック教徒であったため、退位して息子のジェームズ6世に王位を譲ることを強いられ、彼女自身は従妹のエリザベスの慈悲に身を投げました。ハリウッド映画ではしばしば不正確に描かれることがありますが、一連の出来事の後、彼女は処刑されました。

    イングランドのエリザベス1世が子供を持たずに亡くなった後、スコットランドのジェームズ6世はスコットランドの王冠に次いでイングランドの王冠も継承しました。これが王位の統一であり、彼は6世と1世として知られるようになりました。

    彼がイングランドから支配することを決めた時、彼は事実上、やすやすとスコットランドを大きなブリテン島に与えたのです。スコットランドの王が自ら勝ち取った独立を放棄したのです。ロバート・ザ・ブルースはお墓の中でひっくり返っていたことでしょう。

    ジェームズ王の孫、スコットランドのジェームズ7世、イングランドのジェームズ2世はカトリックに改宗し、このことでプロテスタントのイングランドはパニックに陥りました。ジェームズの娘メアリーとその夫、プロテスタントのオラニエ公ウィリアムが侵略に誘われ、ジェームズの王位を転覆させます。ジェームズのラテン語読み、ジャコバスから、彼の支持者たちはジャコバイトと呼ばれるようになりました。

    1689年、1715年、1717年の蜂起に失敗し、1746年には孫のボニー・プリンス・チャーリーがカローデンの戦いで敗北します。

    2014年には、スコットランドが英国の残りの部分との分離を希望しているかどうかを問う国民投票が行われました。結果は僅差で敗北しました。一国が自身の独立を望まないのはおかしいと考え、再投票があると考える人たちや、また、安定のために統合を希望する人たちもいます。

    ロイヤルスコットで私たちが言えることは「見ていてください」ということだけです。

    Cherry Island

    チェリー島

    運河に近づく際に右を見ると、ネス湖に浮かぶ唯一の島が見えます。

    この島はチェリー島と呼ばれ、おそらくキリスト時代に作られた人工島であるクランノッグとして知られています。20世紀の初頭、フォート・オーガスタスの修道士の一人が初期のダイビングス-ツを着て、主に多くの木を交差させた基礎を使って出来た構造を研究しました。

    この島は防衛施設として建設されました。一部のピクト人は湖岸に繋がる歩道がある島に家を建てました。野生動物から身を守ることや釣りが簡単にできるだけではなく、防御するのも非常に簡単でした。敵が攻撃してきた場合、まずアクセスが難しいことと、ほとんどの場合、動物だけ盗んでそのまま先に進みます。しかし、もし、攻撃がかなりのものであった場合、歩道は焼かれ、敵がアクセスすることができなくなります。

    スコットランドには多くのクランノッグがあり、いくつかは考古学者たちによって研究されています。水没した歩道に沿って木炭が発見されており、この戦術が何度か使用されたことを示しています。

    カレドニア運河が建設された時、水位は2メートル上昇しました。これにより、波がチェリー島を侵食し、いずれ湖に沈んでしまうことでしょう。

    カレドニア運河

    カレドニア運河の入り口に近づきますと、ネス湖クルーズのアドベンチャーも終わり近づきます。

    運河はそれ自体が素晴らしいもので、下船されましたら、水門を上って、ジョージ3世とジョージ4世の治世中に建てられたビクトリア朝以前の建設物の素晴らしさを一度味わってもらうことをお勧めいたします。

    1803年から1822年の間に建設され、長さ60マイル(90㎞)、海抜150フィート(45m)まで上昇し、39の水門、10の橋、4つの水道橋で構成されています。建設技術者はトーマス・テルフォード。運河の長さの約3分の2は、自然のネス湖、オイヒ湖、ロッキー湖で出来ています。

    運河は嵐やフランスの私掠船の影響を受けやすいスコットランド北部のより危険なルートを通る船が、スコットランドを安全に通過できるように建設されました。

    運河がオープンして間もなく、大型の蒸気船が建設されたため、その実用性が制限され閉鎖を余儀なくされた可能性があります。1990年を最後に何度も運河を閉鎖する試みがありましたが、何とか閉鎖を回避し、現在は補助金を受けて保護されたモニュメントになっています。

    商業船も運河を利用していますが、現在は主に我々のような観光船やキャビンクルーザーや遊覧船によって利用されています。

    運河博物館は、水門の階段の右側にあります。詳細については、そちらをご覧ください。

    本日のクルーズはこれで終了致しました。間もなく停泊位置に向かいますので、乗務員の指示があるまで座ったままでお待ちください。

    私どものクルーズが楽しいものであり、ためになる経験であったことを願っております。また休暇中、休暇後にお会いになった方々にロイヤルスコットをお勧めしていただけると幸いです。